大虐殺の悲劇が襲った村とそこで暮らす人々。
22/OCT/2014 in Nyamagabe
今日は朝からバスに乗って、ルワンダ南部のニャマガベ(旧ギコンゴロ)という村へ向かいます。
バスから見えるのはのどかな農村の風景。
車内に流れていたラジオ放送は最初から最後までサッカーのイングリッシュ・プレミアリーグに関するトーク番組。僕はサッカーが好きなので凄く興味深くて、ずっとその話を聞いていました。現地語だったのでチーム名と選手名ぐらいしか聞き取れませんでしたが。笑
途中フイエ(旧ブタレ)の街でバスを乗り換えて、キガリから三時間ちょうどでニャマガベのバスターミナルへ到着しました。
道も綺麗だったしバスも快適だった。
ニャマガベは小高い丘がいくつも続く景色の中にある小さな村。
ここで20年前に起こった悲劇。
その現場をこの目で見るためにやってきました。
ちなみにニャマガベの街は以前はギコンゴロと呼ばれていましたが、虐殺の後に地名が変更されています。国民たちの辛い記憶への配慮もあっての事だそうです。
バスターミナルからバイクタクシーに乗る事数分。
この村で青年海外協力隊として活動している”ぐっさん”と合流しました。
ぐっさんはとても気さくでキガリ隊員の俊輔くんと同い年です。
ぐっさんの勤務先はニャマガベにあるこの学校。
学校は公立ですが敷地はかなり広く、小・中・高の建物が一箇所に集まっていました。
まずは職員室に行って校長先生に挨拶。
エチオピアの小学校の職員室には机すらなかったのに、この小学校は設備が整っています。
黒板には授業のスケジュールがみっちり。
それもそのはず、ルワンダでは小6、中3、高3で国家試験を受けることになっているのです。しかも落ちたら留年。
日本の教育に比べてもはるかにレベルが高く、みんな必死で勉強しています。
でも政府が設定したレベルが高すぎて、着いて来れない生徒が続出しているそうです。
理想が高過ぎる国と現場との温度差。
先生たちも苦しんでいるようでした。
ここに通っている学生は小さな子供から、20代まで。
子供たちの給食は毎日変わらず煮豆・煮バナナ・芋でウガンダのご飯と似ています。
毎日食べてたら絶対に飽きるんじゃないかと思ってしまうけど、彼らは飽きずに同じものを食べています。
聞いた所によると、子供の9割は給食代の4000フラン(500円)が払えなくて、朝昼なし・夕食一食のみの学生がほとんどだそう。
きっとみんなと食べる毎日の給食が楽しみで仕方がないから、同じ物だって何だって美味しいんだろうな。
キガリに滞在していた時は恰幅のある人も多く、みんなワンプレート取り放題のレストランで山盛り食べていました。だから朝ご飯・昼ご飯抜きで生活している人がいる国だなんて全く感じなかったけど、実際に住んでいる人と話していると違った一面が見えるから驚いてしまいます。
言われてみればこの村の人たちは確かに痩せてる人が多い。
私たちの訪れた公立学校では一日一食の痩せ細った子供たちがたくさんいる一方で、そのすぐ隣にある私立学校に通っている子供たちを見ると太った子ばかり。
貧富の差の大きさを目の当たりにさせられました。
ちなみにこの学校の学費は年間6000フラン。
それが払えなくて、気づいたら除名される子もいるそうです。
だから子供の頃には学校に通えず、お金が払えるようになってから高校に来ている生徒もたくさんいます。
それでも生徒たちは学校に来るのが楽しそう。
勉強は好きじゃない子もいるみたいだけど、友達と一緒に勉強している子はみんな楽しそうでした。
政府の行き過ぎた教育改革がどう転ぶのか?
アフリカのシンガポールへになれるのか?
全てはルワンダの将来を担うこの子供たちにかかっています。
しばらく学校を見学させてもらった後、ぐっさんは近くの村で始めた養鶏ビジネスの進捗を確認しに行くので、私たちはその間に村にあるとある場所へ。
小高い丘の上に見えてきたムランビ技術学校。
20年前に悲劇が起こった場所です。
ルワンダで虐殺が始まった頃、危険を感じたツチ族の人々は教会の司祭と市長の提言によってこの村にある学校へ避難しました。
その数およそ7万人。
しかし、そんなツチ族の人々が水や食料などのライフラインを断たれた後に一夜にして大虐殺されたのです。
事件が起こった1994年4月21日の夜に殺害されたと言われているのはおよそ5万人。学校から逃げた残りの人たちも追いかけられてほぼ全員殺されました。恐ろしい数字です。
しかしさらに驚くべき事に、なんとこの大虐殺はたったの3時間という短い時間で行われたそうなのです。
しかも虐殺に使われたのは主にナタやハンマーといった原始的な凶器ばかり。
こんなもので5万もの人をたったの3時間で殺すという凄惨な事件。
到底私たちの想像が及ぶ所ではありません。
”信じられない”
そんな言葉しか出てこない。
でも事実は事実。
ルワンダの悲劇を含め、遥か昔から繰り返されてきた虐殺の歴史。
それは間違いなくこの世界で起きた現実の出来事なのだと言う事を改めて思い知らされました。
また、この事件からも分かるように、司祭や市長を始め、ルワンダ政府、ルワンダに介入していたフランス軍までもが虐殺に加担していたのではないかという疑惑が各所から上がっていて物議を醸しています。
学校の校舎は記念館(Murambi Genocide Memorial Centre)として今も残っていて、その中にはルワンダで起こった大虐殺についての資料が展示されていました。
内装はキガリにあった記念館とほぼ同じ造りでしたが、キガリの記念館とは決定的に違う所がありました。
遺品や遺骨、遺体等の展示が全て撤去されていたのです。
床の下のガラスケースには明らかに何かが展示されていた形跡があります。
でもガイドの青年に聞いても、記念館のスタッフに聞いても「始めから何もなかった」の一点張り。
解説が書いてあるパネルを見てみると、ここには遺体が展示されていたはずなのですが。もしかしたら、この記念館ができた後に何か良くない出来事が起きたのかもしれません。
記念館の外にある元々校舎だった建物の中には、虐殺された人々の衣類。
遺骨。
そしておびただしい数のミイラ化した遺体。
腐食しないように石膏で保護されていますが、不自然に捻じ曲がった身体や、切断された手足。
ナタで割られた頭蓋骨には頭髪が生々しく残っていました。
美しい山々が続くニャマガベの街。
記念館を出ると、村人たちはまるで虐殺がなかったかのように穏やかに暮らしています。
仕事がなく何もせずにぼーっとしている人がかなり多かったのが印象的でしたが、今はツチ族やフツ族なんて関係なくみんな仲良しに見えます。
ルワンダ政府も民族の制度を廃止していて、いまは全国民が自分たちの事を”ルワンダン(ルワンダ人)”と呼んでいます。
夕暮れ時。
記念館からぐっさんの家まで帰る途中、地元の若者たちに「メモリアルに行って来た?」、「どうだった?」と質問されました。
”すごく悲しくて複雑な気持ちになったよ”
と答えると、彼らはうなずいてから去って行きました。
ぐっさんによると、彼らは一度も記念館に行った事がないそうです。
それに、ぐっさんの働く学校では政府の意向で年に一回、全校生徒で虐殺記念館に校外学習に行きます。
だけど、パニック症状を起こしたり、泣き出す子供が続出していつも大変な事になるそうです。
行きたくない!思い出したくない!知りたくもない!
今は平和に見える人々の心にも、やはりあの酷く悲しい出来事が深く深く刻まれているようです。
daigoro
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