40年ぶりに帰った日本で待っていたのは…
18〜20/MAR/2015 in Colonia Yguazu
ススキは生えてるけど真夏みたいに暑い一日。
3月だからここは秋のはずなのに、日本の夏よりも暑いんじゃないかと思ってしまいます。
今日は、イグアス移住地を支えるとある場所に行ってみます。
イグアスをささえる場所。
向かったのは町の数キロ先にある採掘場。
遠かったのでパラグアイに入って初めてのヒッチハイクに挑戦です。
20分ぐらいヒッチしていると、近くで働いているおじさんが止まってくれました。
「すぐそこまでだけど。」
といって、1キロぐらい先まで乗せていってくれました。
原チャに荷台が付いた乗り物です。
降ろしてもらった場所でヒッチハイクしていると、今度は一台の乗用車が止まってくれました。
乗せてくれたのは移住地に住む日本人。
パラグアイでヒッチハイクは危ないからやめとけと釘を刺されました。
車から降ろしてもらった所から20分ぐらい歩くと採石場に到着しました。
入口にはここで働いている日本人のセキさんがいらっしゃって、いろいろとお話させてもらいました。
ここではコンクリートや建築に使われる岩を採石しています。
自由に見学していいと言われたので、ヘルメットを装着して採石場の中を歩きます。
まずは敷地の奥へ行ってみると採石の作業が行われていました。
ここの労働時間は7~17時(休憩1時間)。
暑い中作業するのは大変だろうなぁ。
取れた石は用途によって様々な大きさに砕かれます。
石が次々と砕かれ、ベルトコンベアで運ばれ、目の前に山が出来ていく。なかなかの迫力です。
石には種類や砕く大きさによって名前がつけられていて、それぞれの名前がついたトラックに載せられて各地へ運ばれるそうです。
そして、この採掘場の利益は移住地の収入の大部分を支えているそう。
ここで働いている従業員は全部で22人で、そのうち日本人は4人。
だいごろは喉が渇いたと言って、休憩中のパラグアイ人のところにちゃっかりテレレをもらいに行っていました。笑
この二人は採れた石をトラックへ積み込むショベルカーの運転手だそうです。
この敷地のすぐ横では日本各地から苗が送られてきて、それを育てるプロジェクトをしていました。
パラグアイなのにそこかしこに日本語の看板があるのがいつまで経っても変な感じです。
帰りは採石場から出て来たトラックをヒッチハイク。
乗せてくれたドライバーはパラグアイ人で、「ハポネスの友達はたくさんいるぜ!
ヒラタサンの家の近くに住んでる。」と言っていました。
トラックの運転席から見えるのは、辺り一面に広がる大豆畑。
この大豆もイグアスの経済を支える大きな収入源です。
移住地の夜。町の居酒屋で。
同じ日の夕方。
ペンション園田に帰って犬たちと遊びながらのんびりしていると、園田さんの奥さんが呼びに来ました。
「お豆腐屋さんがきたわよ。」
え?豆腐屋さん??
ビックリして家の前に行ってみると、なんと自家製のお豆腐や醤油の訪問販売が来ていました!
パラグアイで手作りの豆腐が食べられるなんて、すごい!
この訪問販売は週1回やってくるそう。
そういえば小さい頃、家の周りを豆腐屋さんが回ってたなぁ、と懐かしく思い出しました。
夕方になるといつもカランカランっていう鐘の音がしていた。
思いがけずやってきたこの豆腐を、普段はケチケチしている私たちも思わず即買い。笑
お醤油とショウガでシンプルに冷や奴。美味しい!
そしてその日の夜。
ご飯を食べている時に、宿泊者の女性の方(匿名希望なので”Aさん”と書く事にします。)とお話しました。
Aさんは長期でこの移住地に滞在中です。
Aさんがイグアス移住地に来るのは今回で2回目。
そのときに、この地で生計を立てた方々の苦労を知り、この場所が好きになったんだとか。
今回はここ滞在するためだけに日本からパラグアイまで飛んできたそうです。
空港から直接ここに来て、他のものは何も見ずに日本に帰るんだって。
近くにはイグアスの滝とか観光名所もあるのに、移住地以外に興味はないんだとか。渋い!
インドのマザーテレサハウスで何度もボランティアをしたことがあって、東北の震災の時もボランティアしていたそうです。ボランティアで素晴らしい人に出会ったお話をいろいろ聞かせてもらいました。
私たちが神戸出身だというと、自分は震災の時に大阪に住んでいたのに仕事が忙しくてボランティアしなかったことがずっと心残りだったと語ってくれました。
今でも当時の自分に腹が立つらしく、「『忙しい忙しいって一体何なの?!』って思いますよね。」と苛立っていました。
Aさんはベジタリアンでもあります。
私たちはこれまでの旅でもたくさんのベジタリアンと出会いましたが、ベジタリアンになる理由って「動物がかわいそう」とか「健康的だから」っていう理由しか聞いた事がありませんでした。
でもAさんの理由は食料問題。牛1匹育てるのに必要な耕地でたくさんの作物が取れるんだから、作物を食べるようにした方が食料問題に貢献できるっていう考え方だそうです。考えてもみなかった新しい視点です。
実は私も旅に出てから、もっと肉を食べる量を減らす生活をしたいなぁと思うようになってきました。
海外では、日本みたいにスーパーに並んだカットされた肉じゃなくて、皮を剥いだだけの肉とかもよく目にするし、丸焼きにされているのも見かける。
そういうのを目にしていると、命をいただいているんだなぁっていう感覚が強くなってきています。
とは言っても美味しいものは食べたいって思うから、ベジタリアンになって全く食べないっていうのは私には難しい。
でも、肉を食べる量を減らすことはできると思う。実際そんなに肉を食べなくても生きていける。
Aさんのエピソードの最後に、彼女に紹介してもらって印象に残っている言葉があるので書いておきます。
“Everybody thinks of changing the world, but nobody thinks of changing himself”
インドのマザーテレサハウスに書いてあった言葉だそうです。
Aさんに近くに居酒屋がある事を教えてもったので、今日ペンション園田にやってきた学生さんと4人で行く事になりました。
4人で夜の田舎道に歩きます。辺りは真っ暗。
すると、道の両脇にぼんやりとした光が見えました。
あれ?なんだろう?
そう思ってじっと見ていると、なんとホタルが飛んでいました!
それもたくさん!!
まさかパラグアイでホタルを見るなんて思ってもみなかったから驚き。
すごく幻想的な光景でした。
そんなホタルの灯りを追いかけながら、農協のある十字路までやってきました。
実はこの農協の2階が居酒屋になっています。
中に入ってみると、居酒屋というよりは会議室をちょっと飾り付けたような感じ。
切り盛りしているのは若いオーナーで、朝は農協で働いて夜は居酒屋だそう。よく働くなぁ。
「ここは儲けなくてもいい。みんなの憩いの場になればそれでいい。」
そういう思いでこの居酒屋をやっているそうです。
私たちが座ったテーブルの横には、移住地で暮らす日系のおじさんが二人。
2人とも、小さい頃に親の意向でイグアスに連れてこられた人たち。
1956年のこと。当時7歳と9歳でした。
今は二人ともこの地で大豆農家を営んでいます。
「自分の意思とかなんもないからね。親に連れてこられたんだから。」
ジャングルを切り開いて農地を開拓して、相当な苦労をされてきた方々。
今の日本に対する率直な意見を聞いてみました。
「今の日本は生活保護だのなんだのというのがあるから甘えた心が産まれるんだよ。
それで、政府とか何かよく分からんものに生かされている。
生かされてるんじゃなくて生きるんだ!俺らなんてなんの保証もないからね。自分たちの力で生きるしかない。人生苦労しないとだめ。」
”これから先のことなんてまあ何とかなるか”って思って何も行動しない、考えないのが甘えなんだろうな。
どうやって生きていくか、自分で考えて自分で選ばなくちゃ。
日本人の政治に対する無関心も「生かされている」証拠なんだと思う。
みんなで話していると、おじさんたちがおつまみとビールをごちそうしてくれました。
写真のいもみたいなやつはパラグアイでよく見かけるユカ。
もっちりしていてほのかに甘くて、腹持ちもいい。
だいごろは店のカウンターに一人で座っている、店の中に一人だけいたパラグアイ人の人が気になって話しかけにいきました。
30分ぐらいして帰って来ただいごろの話によると、やっぱり彼はパラグアイ人で日本語は話せないみたい。
でも彼はイグアスで弁護士をやっていて結構儲かっているんだとか。
だいごろが私たちの旅の話をしたら、スペイン語をほめられたと言って喜んでいました。
社交辞令なのにだいごろは単純だな。笑
話している途中にもう一人パラグアイ人の人が店にやってきて、その人は元警察署長だった人。
その人と弁護士の人が何やら怪しい話を始めたので、だいごろは戻って来たそうです。
その元警察署長は、おじさんたちとも仲良し。
今まで日本語で喋っていたおじさんが、日本語のノリをそのままにごく自然にスペイン語で話していました。
見た目は完全に日本人のおじさんなのに、ペラペラのスペイン語で冗談を言い合ったりしているのがすごく不思議。見ていていちいちビックリしてしまう。
こっちの人にとっては当たり前すぎる事なんだけど。
おじさんはこんな話もしてくれました。
おじさんが数年前日本に帰ったときのこと。
親戚を頼って家まで行ったけど「平日は仕事があるから家でテレビでも見ておいて。」と言われて、朝から夜までずっとほったらかしだったそうです。
「がんばってお金貯めて40年ぶりに日本に帰ったというのにそりゃないよ。
こっちはもし誰か、親戚じゃなくても、知り合いの知り合いでも、誰かが来たらちゃんと歓迎して一緒に食事したり酒飲んだりするよ。
日本は余裕がない。心に余裕がない。
あんな国だめだよ。日本になんて絶対住むか!と思ったよ。
俺はパラグアイが世界で一番いい場所だと思っている。」
私も一般企業で働いていたから、ほったらかすことしかできなかった親戚の状況も分かる。
仕事って休めない時は本当に休めないもの。
でも、それって何て悲しいことなんだろう。
40年もの想いを背負って、地球の裏側からやってきた人を温かく迎え入れることすらできないなんて。
もう一人のおじさんは移住してからもう50年以上日本に帰っていないそうです。
「まあ、1回ぐらいは日本に行っておきたいと思うけどね。」
おじさんがお話してくれたのは、家族の話。
「30歳ぐらいのときにお嫁さんをもらったけど、本当に貧しくて家もボロボロで、よくこんなところに嫁いでくれたと思ったよ。一緒に苦労を乗り越えてきたから、一生大切にしたいと思っている。嫁さんの前ではこんなこと言えないけどね。」
ここに来ていると、やっぱり家族のつながりの強さを感じます。
人間って長い長い間農業や牧畜をして生活してきていて、家族が一緒に協力して住んできたから、こうやって農業をして家族が近くにいることが本来あるべき姿なんだろうなぁ。
おじさんは今は600ha (6km×1km) の大豆畑を持っていて、生活もそこそこ安定しているそうです。
でも、比較的安定している大豆の価格が今年は1tあたり100ドル以上暴落。農家は楽じゃないです。
今は息子さんと一緒に働いて、農業のイロハを教えているそうです。
そして話はまた日本の話に戻ります。
「日本は移住した人たちのことを差別してるのかな?そんな風に感じることがあるよ。」
そう言って切り出してくれたのはこんな話。
息子さんが日本に出稼ぎに行ったときのこと。
苦労して仕事を見つけたけど、腱鞘炎になって帰ってきた。
なんでそうなったのかと聞いたら、10kgの荷物を1日100回もコンベアーに乗せ続ける仕事だった。
そんな仕事が続く訳がない。人を使い捨てだと思っている酷い仕事だ。
息子は正直者だったし、せっかく見つけた仕事だからと頑張った挙句、腱鞘炎になってしまった。
差別があるのかないのか。それは私には分からない。
今は景気が良くないし、日系パラグアイ人じゃなくても学歴も経験もない人が職を探したら、そんな厳しい仕事しかないのかもしれない。
でも少なくとも私の中では「日系パラグアイ人」「日系ブラジル人」という人たちはもっと遠い存在で、たぶん言葉も通じない、日本らしいところもあまりない人たちだと思っていた。
実際に会ってみたらこんなに近い存在なのに。
ここに住んでいる人たちは、ずっと日本の心を大切にしていて、遠く離れても毎日日本に想いを馳せながら暮らしている。
今日本に住んでいる日本人よりも、よっぽど日本人らしくあろうとしているし、日本の良いところを知っていて、日本らしい考え方を守っていっているんじゃないかなって感じました。
そういう日本の精神が残っているからこそ、移住者同士で協力して苦労を乗り越えて来られたんだろうな。
居酒屋が閉まる時間になったので外へ出ると、酔っぱらいすぎて話が全く噛み合なかった82歳のおじいさんがなんと自分で車を運転して帰ると言うではありませんか!
酔っぱらってなくてもフラフラのおじいさんなのに、でろんでろんのままエンジンをかけました。ブルルルル。
そして勢いよくバックして道路に出て、向こうの方へと走り去っていきました。
”ここって飲酒運転OKなんですか? 元警察署長さんもいますけど。”と隣にいたおじさんに聞くと、
「うん。もちろんダメだよね。」
と返されました。笑
私たちはペンション園田まで歩いて帰ります。
今日は貴重なお話がたくさん聞けて良かったな。
kicco
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