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22/MAY/2015 in Oświęcim

4日間お世話になったクラクフにあるSzymonの家を出た私たちが向かったのはオシフィエンチムという街。

駅前の売店で、チーズが生地に練り込まれたポーランドでよく見かけるパンを買って、バスに乗り込みます。
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クラクフの街の周辺にある3つの世界遺産のうち、昨日までにクラクフ旧市街とヴィエリチカ岩塩坑を訪れましたが、今から向かうのは最後の一つ。

おそらくこの文章を読んでいる誰もが知っている場所です。
 

惨劇の舞台。負の世界遺産。

バスを降りて入口でセキュリティチェックを受けて中へ。

季節によるけど、午後3時まではガイドと一緒に行かなくてはいけない。
本当はガイドと一緒に行きたかったけど、タイミングが合わなくて自分たちだけで行くことにしました。
 

そしてチケットオフィスから少し歩いた先で、私たちの目に飛び込んできたのはこんな建物。
ここに来たのは初めてだけど、これまで何度も見た事がある場所。

『ARBEIT MACHT FREI』
「働けば自由になる」という、一度も守られる事のない言葉の下をくぐって行った人々。
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収容された人たちはこの門を通って毎日労働に出かけ、十数時間後に戻ってきます。
そして、毎日仲間の誰かが遺体となり、残された人々がこの門から遺体を運び出していました。

収容所には楽団がありました。
収容者たちを行進させ、管理している人々が点呼しやすくするためだったそうです。
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ここに連れて来られた人々は、到着したと同時に金品や衣服を奪われ、「死の選別」を受けた。
直ぐに殺された人もいれば、数週間生きながらえる人もいた。
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収容所の周囲には高圧電線が張り巡らされ、見張り台からが逃げようとする人々を監視していました。
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出入り口の近くには、脱出を試みて殺された人の遺体が戒めとして置かれていたそうです。
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収容所の建物の内部には、ここに収容された人たちの顔写真がびっしりと貼られていた。
そこに書かれた収容日と亡くなった日をじっと見比べてみるとほとんどの人がほんの数日で亡くなっていました。

「来た者は焼却炉の煙突以外に出口はない」と言われていた強制収容所。
その言葉通り、ほとんどの人が一週間も経たないうちに亡くなり、機械や電気などの技術がある人は生き残っていた。それでも、長くて3ヶ月の命。
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同じ建物に、ある女性収容者の写真が展示されていました。
がりがりに痩せ細り焦点の合わない目をした彼女。
30代後半の成人女性の裸の写真でしたが、女性らしい柔らかさはどこにも見られませんでした。

そんなパネルにはこう書かれていました。
『30台女性、155cm、23kg』
 


 

収容所内にある建物の大半は展示スペースになっていて、中には収容者たちの遺品が残されていました。

眼鏡のフレームの山。
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この部屋にあったのは全て靴。
両サイドのにある小部屋を埋め尽くしていました。
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そのあまりの数に、始めはそれが靴と認識する事すらできませんでした。
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そして同じ建物には収容者から刈り取った髪の毛の山と、その紙で織られた布も展示されていました。
髪の毛も糸を紡いではたを織れば布ができるんだ…。

人間の髪の毛で作られた布は当時兵士のユニフォームを作るために使われ、高く売れたそう。
その布は一見すると麻みたいで丈夫そうだったけど、それが髪の毛だと考えるとおぞましさに身震いしてしまいました。
 


 

そしてこれが死のガス室。
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「死の選別」で選ばれた者はここに連れて来られ、シャワー室だと偽られて服を脱がされました。
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ここに何百という人々が押し込められた後、猛毒のガスが室内へと送り込まれました。
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使われたのは『チクロンB』という殺虫剤。
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この使い捨てられた缶の山が殺された人々の数を物語っています。
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ガス室の壁には人々が爪で掻きむしった跡が…。
ガスが送り込まれてから亡くなるまでの時間は20分もかかったと言われています。
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人はどうしてこんなに残忍になれるんだろう。
少し前までは同じ世界で同じように暮らしていた人たちを殺す。それも何百万人も。
毎日毎日運ばれてくる人々から金品を奪い上げ、死のガス室へと送り込む。

非日常が日常になっていく。
 

第二強制収容所ビルケナウ

ヨーロッパ全体で殺されたユダヤ人の総数は600万人にのぼるとも言われています。

当時最大の収容所だったこの場所は、収容者のあまりの数の多さに対応するためにオシフィエンチムにある広大な土地に第二強制収容所が建設されました。
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建設したのはもちろん収容者たち自身。
一体どんな想いで働いていたんだろう。
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列車でヨーロッパ各地から連れて来られた人々は、この門をくぐった。
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そして列車をおりた直後に死の選別を受けた。
それが自分の生死を分ける選別だとは知る由もなく。
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この広大な敷地内には収容者のための病院もいくつかありました。
でもその病院の呼び名は「焼却炉の玄関口」。

病院が人を救うという本来の目的で使われることはなく、新薬開発のための実験に使われたり、弱っている人は注射をしてその場で殺されたりしたそうです。
 


 

線路の先にあったのは大きな2つのガス室。
しかし、証拠隠滅のためにドイツ政府によって破壊されがれきの山となっていました。
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ここ、アウシュビッツで亡くなった人の数は400万人と言われることもあれば、150万人と言われることもあります。虐殺が起こったとき、被害者の数に諸説あるのはどの虐殺現場でも同じ。
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現在、線路の先には慰霊碑がつくられ、世界各地からたくさんの人々が訪れています。
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やはり訪れるのはユダヤ人が多く、ユダヤ教の慣習に従って石が置かれていました。
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慰霊碑の近くには『死の池』と呼ばれる池があり、当時収容者を焼却した死の灰がここに捨てられていたそうです。
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広大な敷地に残るのは線路とがれきの山だけ。
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これまで何度も目の当たりにしてきた虐殺の歴史。
この先の旅でもいくつもの負の歴史と向き合う事になります。

そして今もこの世界で現在進行形で繰り返されている悲劇の数々。
まるで人間のDNAに始めからインプットされているかのように、いつまで経っても続いている。

この負の連鎖はいつになったら終わるのか。どうやったら止められるのか。
そんな問いかけを歩きながらずっと頭の中で繰り返していたけど、思いついたアイデアはどれも途中で行き詰まってしまう。

でも少なくとも、今、自分の目の前にも次々と悲劇の種が蒔かれていっている。
だから、答えのでない問いかけと向き合いつつ、自分にできる事を少しずつやっていくしかない。
そんな事を考えさせられた一日でした。
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    〜2015.5.22 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所にて〜



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