南京虫の攻撃で顔面フルボッコ × 世界大戦の震源地
02~03/JUN/2015 in Sarajevo
たまたま通り道にあったから立ちよっただけだったけど、意外にも二人とも気に入ってしまったモスタル。
美しい街並と紛争の爪痕が共存する印象的な街でした。
宿もすごく居心地が良かった。
“Hostel David” という名前の宿。オーナーがとっても親切でおすすめです。
サラエボに向けてヒッチハイク
さて、今日も朝からヒッチハイク。
宿の近くは車通りがいまいちだったので、ヒッチハイクできそうな駐車場まで2kmぐらい歩きます。
車がすぐ横を猛スピードで通るからこわい…。
この辺かな。
日陰は全くないけど、車が止まりやすそうな場所を選んでヒッチ開始です。
暑い…。
今日も結構大変そうだなと思っていたら、40分ぐらいして車が一台止まりました。
止まってくれたのはセオという名の男性。
英語が全然喋れないけど乗せてくれた。ありがたい。
走り出してすぐに、窓に貼られた紙を指差しながら何やら伝えようとしてくるセオ。
言ってる事を理解するのにかなり時間がかかったけど、どうやらこの車は売り物で、サラエボまで運んでいる途中みたい。
道中には警察がたくさん。
セオは警察を見つける度に「ポリツィア・ニーア・ドーブラ」(警察は良くない)と言っていました。
途中、坂道でサイドブレーキ引き忘れて、思いっきり後ろの車にぶつかりそうになってひやり。売り物に傷がつかなくて良かった…。
この辺りはずっと山道。
断層が斜めに走ってる山が続いてたり、湖もあったりして自然豊かでした。
途中でセオが立ち寄ってくれた水場の水も美味しかった。
この水は「ドーブラ・ボダ」(良い水)だそうです。
しばらく走ると道路の看板にサラエボの表記。
キリル文字で併記されているのが旧ユーゴスラビアって感じです。
そしてセオに乗せてもらってから数時間でサラエボに到着。
トラムの終点の近くで降ろしてもらいました。
降りた目の前にはモスクが。
モスタルと同じくここもムスリムがたくさん住んでいる街みたい。
そこから、ボロボロのトラムに乗りこみます。
そして、宿があるサラエボの中心部に無事到着しました。
今日もヒッチハイク成功です!
泊まったのは、”Hostel Ljubicica” という、サラエボに来るバックパッカー御用達の一人税込5.5ユーロのドミトリー。
しかしこの宿で悲劇が…!
夜、枕元でむずむず、ごそごそ…
この感覚…
朝起きたら、顔面フルボッコにされていました…涙
ひどい…!
これは南京虫の仕業。
今回もだいごろは無傷で、やっぱり私だけ被害に遭いました。。
一見きれいそうなホステルだったのに…。
ちゃんと綺麗に治るかな…心配になります。
ここは窓がなくて常に薄暗くてじめじめしてたから、南京虫の温床になってたみたい…。
2段ベッドの下の段で寝たのも失敗だった。刺される時は下の段で寝た時の方が多い。
ちなみにここには2泊して、次の日はだいごろが下の段で寝たけど、だいごろは全く被害なし。
だいごろの血を輸血したら南京虫に刺されなくなるかな…。
サラエボの街。
宿の目の前にあったのはサラエボの街の中心。
広場には水飲み場があり、みんなの憩いの場になっています。
そこから街を歩いてみるとモスクだけでなく教会もありました。
こっちにはセルビア正教の古い教会。
すぐ近くにはユダヤ教のシナゴーグまでありました。
サラエボは教会とモスクがうまく共存している街。
ヨーロッパ風の建物、教会の鐘の音、そこを歩く欧米人の顔立ちの人々とベールをかぶったムスリムの女性たち、路地から香ってくるシーシャの甘い匂い、街に響き渡るアザーン、ここはどこ??
何よりボスニア・ヘルツェゴビナが大多数がムスリムの国だなんて全然知らなかった。
街を歩いている時、宿にいる時に聞こえてくるアザーンがとにかく衝撃的だった。
これは街中で見つけたアラブ菓子っぽいお菓子。
モスクもボスニアに入ってから突然増えたし、だんだん中東に近づいてきた感じがします。
公園では男性陣が巨大チェスをする姿も。
中央の傘を持ってるおじさんがめちゃくちゃ強いそうです。
サラエボの街の真ん中には川が流れ、落ち着いた街並。
でも、そんなサラエボで誰もが一度は聞いたことがあるであろう大事件が勃発しました。
事件が起こったのはサラエボの中心にあるこのラテン橋。
1914年6月、セルビア人の青年がオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻を暗殺。
それが第一次世界大戦の引き金になってしまいました。
皇太子夫妻が暗殺されたのは、橋を渡る手前のまさにこの場所。
もともとここにはモニュメントの塔があったらしく、ガラスのパネルに「ここにモニュメントがありました。」という説明書きがあったけど、そのパネル自体もばきばきに割れてて全く読めない…。
近くの建物には当時の写真が展示されていました。
サラエボトンネル
街歩きの後は、トラムに乗ってサラエボトンネルと言われる場所へ向かいます。
1991年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争。
戦争の歴史がまだ浅いサラエボの街には、紛争の爪痕がたくさん残されていました。
トラム沿いの道は当時「スナイパー(狙撃兵)通り」と呼ばれていました。
この通りでは動くもの全てが標的になり、たくさんの人が撃ち殺されたそうです。
通りの両脇の全ての建物に数えきれないほどの銃弾の跡が。
焼けこげた窓も。
そんなスナイパー通りに面したこの『ホリデイ・イン』というホテルは、紛争真っ只中でも営業を続け、たくさんのジャーナリストたちが宿泊していたそうです。
トラムを降りてからバスを乗り継ぎ、一見のどかな家々のある通りをサラエボトンネルに向かって歩きます。
でもよく見てみると通り沿いの家には数えきれないほどの銃弾の跡。
未だに残る紛争の傷跡に驚きながら歩くと、サラエボトンネルに到着しました。
この建物も銃弾の跡だらけです。
1992年から1995年の4年間、サラエボはセルビア人勢力に包囲されていました。
この地図の赤い部分がセルビア人勢力、それ以外の部分がサラエボに暮らすボシュニャック人勢力の支配エリア。
でもこの地図からも分かるように、完全には包囲されておらずほんの一部だけ繋がっている部分があるのが分かります。
この場所にあったのが国連の空港。今現在も空港として使われている場所です。
この地下には実はトンネルが掘られていて、包囲網の外側からこの民家へと繋がっていました。
ここがトンネルの入口。
中に入ってみると、腰を屈めないと通れない低い地下道。これが800mも続いています。
木は暖房に使われるために当時貴重な物資だったため、金属で作られています。
紛争当時は、このトンネルを使って様々な物資が運ばれました。
通信システム、電気のケーブル、石油のパイプラインも引かれていました。
ここに運ばれてくる鶏の卵ですら当時は贅沢品だったそう。
トンネルの周りには当時の傷跡がまだ残っていました。
地雷注意の看板や
爆弾の跡。
トンネルの入口では当時の映像が流れていましたが、紛争真っ只中なのに、トンネルを行き来する人々はみんな平然としていてカメラに向かって笑顔を見せる人もいました。
トンネルから出たら、おばちゃんが水だかお茶だかを兵士に配っていて、その様子も工事現場で働く人が水をもらうときみたいな感じ。
紛争中っていう危険で異常な状況でも、長く続くとそれが日常になっていくんだ。
サラエボの丘の上から
サラエボの街中にはこんなものもあります。
これは「サラエボのバラ」と呼ばれていて、紛争中に砲弾による死者を出した爆発の跡を、後に赤い樹脂で埋めたもの。
街中には本物のバラもたくさん植えられていました。
悲しくむごいサラエボのバラと、華やかで美しい自然のバラ。対照的な存在です。
続いて向かったのはオリンピック跡。
1984年にオリンピックが開催され、その5年後に紛争が起こってしまいました。
だから、広大な敷地のほとんどはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で亡くなった方の墓地として使われることになりました。
夕方、その近くにあった丘の上に登ってみることに。
すると、ここにも所狭しとならぶ真っ白な墓標。
亡くなった日付を見ると、やっぱり紛争のあった年代ばかり。
丘の上に座ってサラエボの街を眺めながら折り紙でバラを折ってみた。
ここから見える街は平和そのもの。少し前まで紛争をしていたなんてとても思えない。
第一次世界大戦のとき、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、こうやってきれいな夕陽を見ることができた人はどれほどいただろう。
墓標のひとつひとつが、悲しい過去を忘れさせないように訴えてくるようです。
そして、このとき頭をよぎったのは今も世界中で起こっている戦争のこと。
世界中の戦争をしている国々も…早くこの場所のように争いが過去のことになりますように…。
kicco
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